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近代日本の中枢・大手町はどのように発展してきたのか

近代日本の中枢・東京大手町。 丸の内、大手町、有楽町を有する東京エリアは、日本の発展の象徴ともいえる地域であり、歴史と未来が共存する革新的なエリアです。
そんな中、現在ビジネス街として特に注目を集めている大手町の発展はどのようなものだったのでしょうか。
東京エリアの歴史を、大手町を中心にご紹介します。

歴史と未来が共存する東京(丸の内、大手町、有楽町)エリア

言わずと知れた日本経済の中心地「東京エリア」
丸の内、大手町、有楽町を有する東京エリアは、多種多様なビジネスパーソンが闊歩する、日本のビジネスの震源地ともいえる地域です。
高層ビルが集積する先進的な雰囲気と共に、皇居外苑や赤レンガで装飾された駅舎などは世界の観光客を魅了しており、歴史と未来が共存する唯一のエリアとして認知されています。
中でも三菱グループの本社が集中し超高層ビルが建ち並ぶ「丸の内」は、日本屈指のオフィス街を形成しています。
そんな丸の内に隣接するのが、中央区との区境にあたる「大手町」です。
大手銀行、商社、マスコミ、政府系金融機関などがひしめく大手町は、丸の内と共にオフィス街として成長してきました。

江戸期より続く日本の中心地

さて、東京エリア発展の歴史を紐解いていくと江戸時代まで遡ります。
今から400年前、江戸開府以来「江戸城」が日本の政治・経済・文化の中心となりました。
今の皇居には江戸城があり、現在の丸の内オフィス街には武家屋敷が立ち並ぶ街並みでした。
現在、諸国の大名屋敷が立ち並んだ東京駅と皇居の間には約23万人ものオフィスワーカーが集まっています。
事業所総数は4,000社を超え、土地面積120ヘクタールの巨大なビジネスセンターへと発展しました。

江戸城が皇居へと姿を変えたのは明治維新の折、今から150年前のことです。
倒幕後、現在の丸の内オフィス街である大名屋敷の町並みは軍用地として利用されていましたが、程なくして明治政府は丸の内の市街化に動きます。
民間企業へ払い下げが打診されると、1890年(明治23年)に三菱社が土地を一括して取得し、今日のようなビジネス街へと発展していきます。

丸の内のビジネス街としての歴史は、西洋風の外観を持つ煉瓦造の建築物である「三菱一号館」の竣工で幕を開けます。
三菱一号館を皮切りに次々と建設される赤レンガの街並みは、「一丁倫敦」と呼ばれ親しまれました。
そして、1894年から始まった第一次開発以降、三菱グループの中心地として次々とオフィスビルが竣工し、高度経済成長期を経て第二次開発と向かいます。

この付近一帯がビジネス街として急速に発展したのは、1923年アメリカ式の大型ビル到達点とされた「丸ビル」完成後です。
日本で初めてオフィスビルに商業施設が導入されたビルとして大注目を浴び、現在に至るまで長く親しまれることになります。

大手町の発展

大手町の発展は、高度経済成長期におけるビルの新築ラッシュからですが、日本屈指のオフィス街へと成長を遂げるのは、1998年から始まった三菱地所による丸の内大規再構築以降です。
高層ビルの多くが老朽化を迎えた2000年代以降、「連鎖型都市再生プロジェクト」により、大手町の再開発が連鎖的に行われました。
大手町地区を国際的なビジネス拠点とするため、大手町合同庁舎1・2号館の跡地を玉突き式で再開発していき、大手町フィナンシャルシティグランキューブなどの超高層ビルが建設されました。
このオフィスビルは最新のBCP機能を有し、「災害時にも止まらないオフィス」を実現。
この再構築より、大手町の国際的なビジネス街としての地位は盤石なものとなり、2017年である去年には、商業と緑の融合である大手町パークビルが竣工されました。

まとめ

丸の内の発展、そして再開発とともにオフィス街「大手町」は成長してきました。
さらに、2027年には高さ390メートルの超高層ビルを常盤橋地区に建設する計画も発表されました。
敷地面積3.1ヘクタールに及ぶ大規模複合開発である常盤橋プロジェクトは、東京の新たなランドマークとして多彩な賑いをもたらしてくれるのではないでしょうか。

今後も、大手町はグローバルなビジネス拠点として、さらなる発展へと動き出しています。

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